そこで祖父は、潜水艦に乗る為の訓練を受けていました。
戦局の変化によって東京へ移動した数ヵ月後の8月6日、原爆が投下されました。
私が子供の頃から祖父は度々北支の話をしていましたが、何となく素直に聞いていた気がします。それは、話に暗くもの悲しさがなく、広大な大地や長城のことなどについてだったからでした。
理由は忘れてしまいましたが、中学1年の頃、戦争のことについて手紙に書いて送ってくれるようにお願いしました。
2通送ってくれました。
今読み返してみると、その当時ちゃんと読んだのかどうかを疑いたくなるほど内容を覚えていなかったのはちょっと反省ですが、貴重な生の声です。
再読して気になったのは、祖父は駐屯先の現地人と親しかったということです。
その方が国内でどのような立場にあったのかよくわかりませんが、一緒に天津へ出かけてお風呂へ入ったり料理を食べたりして楽しんだこともあったようです。手紙の終わりには、中共開放によって外国へ逃げたかも?それとも国内の要人になったのかな?その人とまた会ってみたいよという文で締められていました。
手紙を読み返して、また色々と聞いてみたいとの思いがありますが、今はそれもかないません。
それでもここにもまたひとつ、戦争におけるそのステレオタイプではないささやかな記憶が残っています。